書くことしかできない

最近は,書くことをやめてほしいと言われる事が多い.

自分には書くことしかできない.煙草を呑む.アイスコーヒーを飲む.それだって書くことの一環だし,翻って自分にとって書くことをやめるというのは,煙草をやめるとかアイスコーヒーをやめるということに近い.減らしてなお,きっぱりと抜け出すことはできない.

写真だって書くことの一環だ.皿の色を見るとき,自分は文章を読んでいるのだ.色に含まれたイメージ,模様のモチーフ……そういったものを,写真として書く.

それは表現だという声が聞こえてきそうだ.そう,それは表現だ.でも,自分には書くということ以外の表現がわからない.撮るというのはどういうことか,さっぱりわからない.写真を撮るとき,自分は間違いなく「撮って」いるのだろうと思う.

 

しかし,撮るということは一体どういうことなのだろうか?

もしそれが日常を切り取る表現だとするなら,美しい日常を切り取った文章もまた「撮った」ものであり,それは書く行為と撮る行為の境目を曖昧にする.

それをこうして書いている以上,自分には書くことしか残されていないのだと思う.

撮れば撮るほど文章も増えていく.光の角度,オブジェの輪郭,釉薬に写ったオブジェ.何がどう美しいのか,稚拙ながらも文章に,汚い文字の羅列を書きつけていく.

 

心情を考えることも多い.今日会った人はどのような人か,会って何を話したか,大学の講義の内容,課題が出たのかどうか,そういうようなことをA6版のノートに綴っている.

自分には書くことをやめることができない.たまにこうしてキーボードを叩いては書いてはいけないことを書いてしまい,怒られたり悲しませたりしている.人を悲しませたり怒らせたりするような事しか書けない自分が嫌になる.

書くことで人を喜ばせることができるようなイフは存在したのだろうか.

それとも,そのようなイフなぞ何処のパラレルにも存在せず,どの道に行っても人をグチャグチャにするようなものしか書けないのだろうか.おそらくはそうだろうね.

それでも書くことをやめることはできない.今更だ.もう後ろを振り返っても戻れない.A6版に綴っていたら幸せになれたのかな.そんなことはもうとっくに証明されている.膨れ上がった嫉妬が見えて終わりだ.結局のところ,書くことで得られる幸せなぞ一時のもので,それでも書くことで得られる一時の幸せを求めて,自分は書き続けることしかできない.