下宿への思い

 俺にはわかる.あの床の少し剥げたワックスの手触りも.俺にはわかる.ディーゼルの煤で朝に洗ったのに昼にはザラザラになってしまう室外機の手触りも.座り心地も.俺にはわかる.サラダ油に塗れてベタベタになった壁紙も.すべてが触覚になって再現されてしまう.コーナンで買った安いマットレス,タオルケットにくるまり朝が来るまで何もできずに時間をつぶすようにゲームもできずに,ただただYoutubeで無言のサバイバルの動画を見た日が,頭の中を不意に塗りつぶし,何もできなくなってしまう.

 どうしようもなく思い出されてしまう.手触りさえも不意に下宿に戻ってしまう.

もう帰れないのに.家具は引き払うときに殆ど捨ててしまった.あの空間に今使っている鞄がぽつんと一つあったところで,もうそれは帰ったとは言えないんだよ.

 

 酒に酔ったあの日,その次の日はとてもとても雲が綺麗な晴れの日だった.

自分は,網戸の向こうにその綺麗な雲を眺めていた.1mmの鉄格子.

どうしてもあの綺麗な入道雲には届かない.やがて雨が降り出した.

シトシト,シトシト…… 雨の向こうには,もはや自転車のベルも聞こえず,ノートパソコンの画面と,その中で走るソーシャルゲームのキャラクター.画面の横には,カップラーメンのガラで作った自前の灰皿.5ミリの雨とタール.

 

 アルバイトはどうもうまくいかなかった.嫌味なことを言われた日には帰りに必ず9%の缶チューハイをロング1本空けていたし,スーパーからの帰路でなくなってしまったら数分後にはもう1本買いに行く始末だった.オンライン授業の課題もせずに.

 

そうして,そうして,今はただ帰れない下宿を川向うに眺めながら,煙草を吸っています.不意に思い起こされる記憶と戦い,勝ってしまったら,自分はどこへ行くのでしょう?